【コケ】コーヒーかすリウム
どうも、ぽりまです。
夜中は依然として冷気が漂いますが、日中は暖かく俄然、春らしくなってきました。これが時候の挨拶というヤツです。
まずはこの良い陽の差し当たりで撮れた写真を見ていただきたいのですが、この透明なケースに入っているのはコーヒー残滓とハサミで細かく割いたヘラハネジレゴケ。右の瓶には余りの残り滓が入っています。
「というか、下の配線汚ねぇな」
昨晩コーヒーを淹れていた際、落とし終わったコーヒーの残り滓がどことなく土っぽいのを見て「これを土代わりに苔を育てよう」と思い立った次第です。
使ったコーヒーは、言わずと知れたスターバックスのドリップタイプのエスプレッソ。
横文字多し。
つまり白鯨(ハーマン・メルヴィル)より、捕鯨船ピークォド号副長である男の名より由来する由緒ある珈琲店の水滴落下型粉末急行抽出珈琲というわけですね。
店名の由来は、第一候補だったハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』に登場する捕鯨船ピークォド号(Pequod)の名を退け、副長のスターバック一等航海士(Starbuck)とシアトル近くのレーニア山にあったスターボ(Starbo)採掘場から採られた。日本ではスタバとも略称される。(Wikipediaより)
ついこの間、図書館で漫画で読む『白鯨』を読みましたが、鯨と海の男らとの壮絶な戦いは中々興奮させられました。原作も読むべきですね。名作毛嫌いせず。
話は逸れましたが、これで一体、苔は無性生殖で増えてくれるのか?浅知恵ではありますが実験してみます。他のコーヒーでも差異は出るのかも試してみたいですね。
【コケ】伝説の始まリウム
どうも、ぽりまです。
春休みが始まって早1週間。どうもほとんどの時間をバイトと睡眠に費やしている模様。
さらに為にもならないブログを更新していては末期ですね。苔部も作ったし、蘚苔類学会にも入った事だし、なにかコケっぽい事を始めようと思い、今回は安価でテラリウムを作りました。
材料
- 100均のガラス容器
- 家の前の苔
- 家の前の石
- 川砂
- 富士砂
- くん炭
と、お手軽な材料で作りました。ガラス容器はグレープフルーツくらいの大きさです。
手順
- 石と苔を集める。
- ガラス容器の底に川砂を敷く。
- その上に富士砂をかぶせ、霧吹きで水をかけて固める。
- 石を刺す。
- 苔を植える。
- くん炭を外周に撒く。
なんて簡単さだ…。
春休みに入ったら「作ろう作ろう」思っていたテラリウム。YouTubeでいっぱいテラリウム動画を見漁ったけど、ようわからんので、とりあえず去年の春に買った土を重ねて苔を植えた…というか置いた。
土の効用とかもほぼ無視して重ねた上、苔は外にあった状態のまんま植えたので、ただのズボラリウムですねこれ。
まぁでも可愛いからいいでしょう。
【言葉】「ヒトな人」と「人なヒト」
どうもぽりまです。
なんでいつも人間の事を【ヒト】って表記するの?
ブログタイトルに【 】をつけてテーマを書くと決めているのですが、確かに人間に関するテーマの時【ヒト】っていう表現にするんですが、これ、理由があるんです。
ちなみに苔に関する記事の時は【コケ】って付けるのですが勘の鋭い人は気がついたでしょう。そう、生物の分類ですね。界門綱目科属種。まぁ、と言ってもコケはコケ植物門、ヒトはヒト科であるように階級が違うんですけど。ともあれ【人】とせず【ヒト】と表す理由は二つの言葉には明確な違いがあるからです。
【人】とは
- 文化的
- 社会的
- 自分はヒトだと自覚がある
【ヒト】とは
- 野生的
- 本能的
- 自分は人だと思っている
それぞれ3つずつ並べましたが、どちらも上記2つは辞書を引いても出そうな説明ですよね。問題は3つめ。
人は「自身をヒトだと認知している」
ヒトは「自身が人だと認知している」
自らの捉え方次第でその認知とは逆のものであると僕は思います。
ヒトは自分が人だと思う。
人は自分がヒトだと知る。
人間というのは自分達が思う程、崇高な生き物ではないと思います。数が数なだけに、発想力が膨大であると同時に、生産する力が他の動物よりも勝っている、その程度じゃないかと。
僕がブログタイトルをいつも【ヒト】にするのは僕自身【人】について多くを語る程、まだ【人】として成就してないからです。僕が書く記事は所詮【ヒト】の範疇だという事です。
自然界と壁を隔て人間界を築いたからこそ、その中では王者であり、存分に力を振るうことができている。ただ自然界で生き抜くには人間はあまりにも無知だと思いませんか?道具はもちろんのこと、一糸纏わずの姿でです。
それらを自覚していて「我々はその程度の存在だ。それでもヒトは音楽や芸術を愛する事ができるのだ」と言える者が「人」と呼ばれるのでしょう。いや誰に呼ばれるでもなく、そうあるべきだと。
【コケ】テラリウムがしたいんだ
どうも、ぽりまです。
苔界のさかなクン的存在に会いたい。
今回は苔とテラリウムの魅力について話したいと思います。経緯といえば…苔サークルを立ち上げたいと思い、それには人が必要な訳で、魅力を伝えられずにどう人を集めようものか、と。だからこの記事で精一杯、魅力が伝われば良いです。
ただ僕自身、初心者なんです。経験値が足らない。苔が好きだしテラリウムに興味はあるけど手を付けられずにいる、そんな立場です。
だから言い出すのが恐い。
「苔って素晴らしいんだ!!!」
「ふーん、それで実績はあるの?」
無いんですねこれが。苔の魅力に取り憑かれても、外は一面銀世界。見つけることすらできない。まぁそもそも実績なんてって話ですけど。
まずテラリウムとはなんぞや?
テラリウム (Terrarium) とは陸上の生物(主に植物や小動物)をガラス容器などで飼育・栽培する技術である。 現代でも園芸の一スタイルとして、陸上動物の飼育ケージとして、多くの園館や研究者、アマチュア愛好家によって製作されている。(Wikipediaより)
テラリウムは園芸の一部とも考えることができるし、密閉型環境実験とも言える。幅を持たせた言い方だと芸術であり学術であり。なんかこれといって正解だと思える定義が無いんですよね(自論ですけど)。
テラリウムについてはわかった。で、一体何が楽しいんだ?
何言ってるんですか?最高じゃないですか??手の中に生態系を飼うんですよ?生態系とまでいかずとも確かに生きてるモノが囲いの中で息しているんです。支配欲でしょうかね。誰しも持っているんじゃないですか。ナウシカですら隠し部屋を持ってまで腐海の植物育ててたじゃないですか。映画『メンインブラック』でエドワーズに対して言ったKが言った台詞。
「1500年前まで人間は地球を宇宙の中心と考え、500年前までみな地球は平らだと信じ、15分前まで君はエイリアンの存在を信じていなかった。人間の常識なんて、はかないものさ。」
その後で“地球の存在する宇宙も、誰かのビー玉の中に過ぎないかも”的なシーンが入るんですが、堪んないですね、この感覚。なにか爽快なわけですよ。僕らは広い世界に住んでいると思いがちで、本当はちっぽけで儚い囲いの中にいるだけ。テラリウムの小さなアクリル容器に入っている生態系を観てそれに気付くんです。イッツアスモールワールド(語弊)。
お、おう…。動物じゃダメなの?
動物を飼う事との大きな違いは、テラリウムは水・酸素・二酸化炭素が循環する事。密閉空間で自給自足する様は生命力を体現したかのよう。うーん…最高にクールだ…。動物を飼うのは命を飼う事。テラリウムで植物を飼うのは世界を飼う事。スケールが違うんですわ。
でもなんで苔テラリウムにこだわるの?
苔の美しさって日本人特有の美的感覚から来るものだと思うんです。君が代の詞にもある『苔のむすまで』日本人ってこうゆう経年変化に侘び寂びを覚え、独自のセンスを磨いてきたんでしょうね。忘れちゃいけない精神だと思います。苔はそれをいつでも思い出させてくれます。
わかったよ。それで苔サークルではどんな活動をするんだ?
いやぁ…それが具体的に決まってなくて。テラリウムを作ったり、特定地域の苔のフロアなんかをしたりしようかと思ったりしてます。まぁ、と言っても「蘚苔類学部」という名でうちの学校でヒソヒソとやろうとしてるだけなんですけどね。
じゃあブログ記事にする前に学内で勧誘しろよ
だって「キミ、苔に興味ない?」ってただの変態やないか。
【ヒト】コンプレックスを武器に変える2つの方法
どうも、ぽりまです。
久しく更新してませんでした。今後どういったスタイルで記事を上げていくか、思い悩んでいましたが、閲覧数を気にすると、器用貧乏な記事になってしまいそうで…。
それよりもコアな内容で、自分の書きたい事を書く。せめてこんなゴミみたいな記事を吸引力のある読者に吸い込んでもらいたい。吸引力の変わらない、ただ1人の読者に向けて。そんな思いでこのブログを続けていきます。
コンプレックス。言わば劣等感は、多感で繊細な日本人なら誰しもが感じうる感情ですよね。これに苛まれるヒトは非常に多いと思います。
体型や容姿、さらには能力・センス、性格までも他人と比べてしまいがちです。
自分自身、中学校時代に天パがコンプレックスで頭を抱えてました…。しかし今やトレードマークでありポテンシャルの1つです。そんなコンプレックスをモノにし武器へと変えた2つの方法を紹介していきます。
1.優劣でなく、ただの二極だと知る
そもそも、ヒトの様々な性質に優劣は無く、ただの二極に過ぎないのです。気付いてください。優劣の概念自体、人間の劣等感を煽り、物を買わせる為のマーケティングツールなんですよ。
体型を気にするヒトへ、健康食品を。
悩みを抱えるヒトへ、カウンセリングを。
天パを気にするヒトへ、シャンプーを。
と、いった具合に健康や美容、自己啓発に気を使うのは良い事ですが、それ以上にコンプレックスを煽った商品は世の中に数知れずある気がします。
“隣の芝生は青い”。ヒトは他人が持ち、自分の持たないモノに憧れを抱きがちですが、それは返って良い事だったりします。
僕は天パで悩んだ一時期、死ぬ程、天パについて研究しました。シャンプー、ストレートアイロン、縮毛矯正…。何が何でも天パから離れたかった。しかしある日、友人に「イイ感じだね」と、うねる前髪を褒めらました。それから度々、同じことを言われましたが、そう言ってくれた人は皆、直毛サラサラの人達だったので初めは嫌味かとも思いましたが、どうやら皆本心から言っているようで、ヒトの性質は“優劣”ではなく“二極”なのだと、その時ハッキリと確信したわけです。互いに羨む存在なのだと。
2.メインウェポンとして最大限に利用する
ヒトの性質が二極なのだと理解した方は、もうすでに武器の充填が完了したところです。次はあなたの武器をどう使うかです。
あなたの武器は想像以上の火力を誇ります。あなたがその武器を欠点だと認識していた時の卑屈の感情に匹敵する火力です。
オードリー・ヘップバーンは言います。
”私は自分を美人だと思ったことがありません”
彼女はコンプレックスだらけだったそうです。特に胸が無いことは致命的で、デビューしたての時、胸に詰め物をして写真を撮る屈辱を味わったとか…。
また、彼女は背が高く、痩せ型である事も気にしていました。しかし彼女がスターとなり、長いレッドカーペットを踏む頃には、世界の美の基準は逆転し、これまで持て囃された豊満な胸やお尻とは打って変わって、スタイルの良い細身なファッションが流行します。
オードリー・ヘップバーンの言葉 ~なぜ彼女には気品があるのか (だいわ文庫 D 327-1)
- 作者: 山口路子
- 出版社/メーカー: 大和書房
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彼女は自覚する欠点を武器にしたんです。コンプレックスを逆手に取って時代の最前線に立ったのです。彼女だけではありません。多くの著名人もコンプレックスを武器とし大舞台で活躍してることでしょう。
手で持つには重すぎた武器だとしても、はたまた手に余るだけの数多い武器を一人で持っていても、それはあなたのメインウェポン。試し撃ちは済みましたか?
さぁ、あなたもコンプレックスを武器に最前線へ。
【ヒト】なぜ"エロ"と"ホラー"は相殺するのか???
どうも、ぽりま (@k_k_now115) です。
もし100万円手に入れたなら僕はハンガーを買いますね。深刻なハンガー不足なので。
エロとホラー
皆さんはこの二つ好きですか?片方だけ?どちらも苦手?
僕自身どっちも大好きです(断言)。
- 湧き上がるエロを抑えなきゃいけない時、怖い事を考えて紛らわす
- 背筋が凍るほどのホラーな体感をしている時、エロい事を考えて紛らわす
こういった消したい感情を、エロとホラーが対になるようにして相殺する。皆さんはこうゆう体験ありませんか?でもなんでこれが可能なんでしょう??少し考えてみました。
エロとホラーの関係性
まず2つの共通点。
- 非日常的である
- ドキドキする心理が働く
こう見ると、エロとホラーって意外と近い存在なのかもしれません。どちらも普段、生活していても中々味わえないモノですよね。「興奮」という言葉に置き換えればドキドキする心理も似ています。
では次に2つの相違点。
- エロはとりわけ肉体的なもの。「生」を連想する。
- ホラーは多くが精神的なもの。「死」を連想する。
うーん...こうなると両者は真逆の存在ですね。だから互いに相殺するのかも。
よくホラー映画でエロシーンがあるのは正反対のものを見せて、その落差で一層恐怖心を煽っているのかもしれないですね。
エロとホラーに関する記事まとめ
これらの記事にも書かれていますが、エロとホラーの原点は「好奇心」にあると思います。要するに、スカートの中を覗きたくなるのも、ホラー映画を好んで観るのも、同じ心理から来るのではないでしょうか。人間は進化を追い求める生き物です。それもまた好奇心があるが故だと思います。
エロとホラーは最高のエンターテインメント
エロ、そしてホラーは対照的でありながらも親和性を持ち、人間にとってはこれ以上に好奇心を唆るものはありません。どちらも人間が本能的に求めるものだからです。この世に溢れかえる様々なコンテンツはこの2つを巧みに取り入れて、より購買意欲を高めたり、興味を惹く仕組みになっていると思います。エロとホラーは最高のエンターテインメントであり、最強のマーケティングツールでもあるのです。
【服】お洒落は3つの型から成るに違いない!!!
どうも、ぽりまです。
今日の話題はファッション。
ただただ服に関する持論を話すだけなので悪しからず。
まず、大前提‼︎‼︎
僕はオシャレ上級者ではないし、ブランドオタクでもなければ、流行に敏感ってわけでもありません。最近話題のミニマリストってことでもありません(少し憧れ)。
僕はただ着たい服を、買える値段で見つけ、それに合う服を探し、組み合わせる。 そうやって日々の服選びを楽しむ一般人です。
いわば"凡人ファッション"。
でも他人と服がカブるのは嫌だし、私服がダサいと思われるのも極力避けたい。そんな僕の考えるお洒落とは…
3つの型があると思う…のです。
1.定番
オーソドックスで当たり障りない。いわば普通。しかしそこに深みがあり無限のレパートリーを持ち合わせているのもまたコレである(と思う)。
2.流行
多くの人の好感が向けられる。またこれも間違いないモノであるが、"定番"との違いは飽きられる時がいつか訪れるモノである(と思う)。
3.先行
他人より先を行く、前衛的かつ未来的な型であるが故に奇抜で、万人ウケするモノではない(と思う)。
以上3点がファッションにおける型なのではないかと思うのです。
で、これはご飯で例えると…
定番=主食
流行=おかず
先行=デザート
主食である定番は誰が着ようと見た目にさほど違いはないわけです。しかし細かなディテールやサイズ感にこだわりがあり、一見同じような米やパンが作り方や品種によって違うように、それぞれ独特の風味があります。
おかずである流行はウケやすくも飽きられ易い服装です。毎日ステーキを食べるのは(よっぽど肉好きでない限り)飽きますよね。たまには魚が食べたくなるし、米なしの肉は淡白でどこか味気ないです。
デザートと言われる先行は、そこまで沢山食べられません(よほど甘党でない限り)。少量で足りるものなのです。しかし多くのデザートがそうであるように料理(ファッション)全体にエッジを立たせたり、香り豊かな柔らかさを与えてくれます。
こんな風にご飯で例えるとファッションはそれぞれの型のバランスが大事な気がします。
偏った食生活がよろしくないように、偏ったファッションは個性を象徴するどころか、個性を擦り減らしかねません。
お洒落とは多面的で一口には語れませんが、僕が思うお洒落はこの3つの型のバランスが整っている事デスネ。